アユミちゃん
歯磨きをしていると、足の裏がかゆくなったのでぼりぼりと爪を立てていた朝。起きてからつけている情報番組のアナウンサーが興奮気味に、数年前にブレイクしたあと低迷していた女優が「男になりたい」と告白したニュースを告げた。芸能リポーターが続けて詳細を説明し始める。わたしは、リポーターが熱く語る様に背を向けて、口をゆすぎに洗面台へ足を運んだ。
わたしは、後頭部あたりまでせり上がってくる「アユミちゃん」を思い出していた。口の中はやけにスースーしていた。
ラッシュを避けて電車に乗ったつもりだったが、混んでいるものは混んでいる。吊り革を握り、上がった腕に顔をもたれて小学生の時に出会ったひとつ上のアユミちゃんのことを考えた。
わたしは小学校低学年の頃、放課後帰宅しても家にだれもいないことから、となりの地区の小学校で学童の先生をしている母のもとに行っていた。そのために、小学校に上がってしばらくは自分の小学校よりとなりの小学校の友だちの方が多かった。
アユミちゃんはそこにいた。
アユミちゃんは髪が短く、小麦色に焼けた端正な顔立ちの美少年のような少女だった。名前の「歩」がたたって、『アユムくん』と間違われることは日常茶飯事だった。
特別仲が良かったわけではないが、彼女はなにかとみんなの目を引く存在だったので結構覚えている。言葉は悪く、態度もがさつで少し横暴なところもあったと思う。だけど、細かいことは気にせず寛大だった。ひとなつっこい性格も相まって、友だちは多かったし、地域のオリエンテーションに行っては友だちを作ったと、こともなげにアユミちゃんはよく話していた。当然、男子の友だちも多く、女子扱いされている気配はまったくなかった。
服装は男子そのもので、わたしにはアユミちゃんがスカートを履いている記憶はない。そんなアユミちゃんが一緒に川遊びをした時に着ていた水着が、いかにも女の子仕様のものだったことが印象的だった。ピンクに花柄、腰まわりにはスカートを模した大ぶりのフリルが付いていた。アユミちゃんはいとこのおさがりだと言っていた。正直、いつもの男っぽいアユミちゃんを見ているだけに、全然似合っていなかった。異様なほどだった。だが当の本人は、特に恥ずかしがっている様子がなかったことも色濃くわたしの頭の中に残っている。
なんとなくソリの合わないわたしたちは、ケンカをするわけでもなく、かといって冷戦状態だったわけでもなく、単純に一緒に遊ぶことがなかった。ただ、アユミちゃんは母にとてもなついていたので、どこか近い距離で彼女を感じてはいた。わたしは結局、中学年になる前に自分の小学校の友だちと遊ぶことを覚え、学童には長期休みに通う程度になった。そしてそのままアユミちゃんとわたしの関係はフェードアウト。一度途絶えた関係は、ケータイを持つようになってから母を通じ、アドレスを知って復活した。しかし、何度もアドレス変更のメールを送りつけてくることに嫌気がさして、いつからか新しいアドレスを登録しなくなった。そして、わたしがアドレスを変えたのを機に、わたしたちは結局疎遠に戻った。
故郷の母と月に数度交わす電話の中で、ついこの前アユミちゃんの話題が出た。
――「アユミちゃん、妊娠したみたいで、結婚するとか言ってるのよ」
――「でもそれが、家庭持ちの男だって」
――「服装もすっかり女の子で、髪も肩くらいまであったわ。恋愛の力って、やっぱり侮れないわぁ」
その時は、仕事で疲れ切っていたこともあり、適当に相槌を打つだけで母の話を聞き流していた。それがいまこのタイミングで思い起こされる。
「あのアユミちゃんがねえ……」母の呟いた言葉はエコーを付けて、頭の奥で静かに響く。窓から見えるビルたちに目を据えて、わたしはなんとなく腑に落ちていた。
アユミちゃん。アユミちゃんは、女だとわたしはわかっていた。母も、周りのみんなも、アユミちゃんは、こころが男できっと女を好きになるだろうと、口には出さなかったが思っていたはずだ。現に、アユミちゃんは中学生の時に告白してきた女の後輩とすこしの間だけ付き合っていたと聞く。母は、あの電話で「男のひとが好きだったんだねえ」と本音を見せた。だけどわたしは、同意できなかった。単なる、勘でしかなかったが、アユミちゃんから滲み出る女のにおいをわたしは嗅ぎ取っていた。いや、時折アユミちゃんは“女”をちらつかせていた。女の子と付き合った話を聞いても、納得いかなかった。だから、今回のことはむしろ、やっと答え合わせができたような爽快感をくれた。
珍しく、今日は仕事がはかどった。
家に帰り、母に電話をする。何回目かのコールのあと、聞きなれた声がした。いつも思う、母の声は故郷のいい香りがする。
「もしもし」
「あんたから電話なんてひさしぶりね」
「そう?」
「そうよ」
「だっておとといわたしから掛けたばかりだよ」
そう言うと母は、大きな声で笑って「ボケてきたわあ」と、また笑った。
「あのね、アユミちゃんのことなんだけど、どうなったの?」
「ああ! そのことね、あんたあのときどっか上の空だったくせしてちゃんと聞いてたのね」
「ごめん」
「アユミちゃんね、妊娠してなかったの」
「え、そうなの」
「そして挙げ句、そのごたごたのせいで男のひとと別れたって泣くのよ」
「お母さん、アユミちゃんのことなぐさめながら、良かったって思ったよ」お母さんは、ほっとしたように言った。
やっぱりアユミちゃんはバカだったんだな、とわたしは頭の中だけで暴言を吐く。アユミちゃんは、わたしが考えていたように根っからの女だったし、それこそ普通の、バカな女だった。アユミちゃんは、途方もないほど、女。
わたしは、アユミちゃんのおなかの中にすこしだけ存在した架空の赤ちゃんを思って憂いた。
翌日、あの女優は売名行為だと各メディアで叩かれていた。
おわり