家のある青い森
彼とあなたは全く別物の人種なのに、まとう空気が同じな気がしてた。髪の黒さはもはや、同じだった。
わたしはあなたとの約束をけなげに信じて、知り合いもいない、どこかもわからない、一年中寒い辺鄙な山の中に住んでいる。あなたが残した言葉だけを頼りに、毎日正の字を書く。ここにはカレンダーがない。三六五日冬なのだから、そんなものはいらないのだ。もしかしたら、ここには時間そのものがないのかもしれない、そんな考えが頭を過ぎる。かろうじてまだ、そのバカげた憶測を否定できるのは、微かに残るなけなしの理性だ。しかしその理性もまもなく、彼の存在によってなくなってしまいそうだ。だからあなた、はやく迎えに来て。
「お姉さん」
「また、来たのね」
「うん。今日はお姉さんがはなす番だよ」
時計はある。前述した時間の有無がこれにより「ある」と証明されるかもしれないが、わたしの言う時間とはあくまで「時」だ。朝と夜はあるがそれは「時」ではない。食事をして、排泄する。朝起きて、夜眠る。ここでは朝と夜は生理現象でしかないのだ。
彼は決まって十二時にやってくる。一週間に四度。それから食事を共にし、毎日かわりばんこに互いのはなしをする。今日はわたしがはなす日だ。
「そうね、なにがいいかしら」
ポトフのじゃがいもをいじりながらわたしは頬杖を突く。暖炉のパチパチと燃える音が聞こえた。毎日はなしをすれば当たり前にネタはなくなるし、確証はないがわたしが培ってきた思考と体験してきた歴史は日毎少しずつ薄くなって無作為に消えていっている気がする。もしかしたら彼に同じはなしをしているかもしれない。昨日彼がはなしたことは覚えていても、おととい自分がはなしたことは忘れている。そのうち、わたしは彼のはなしをまるで自分が経験したことのようにはなすかもしれない。いや、もうすでにそうしているかもしれない。彼だって、わたしの思い出ばなしを昨日したかもしれない、あしたするかもしれない。それほど、ここでは思考観念が脆弱だ。本当に、わたしは昨日彼がはなしたことを覚えているだろうか。そもそも昨日彼は来たのか。正直、どうでもよくなりつつある。それよりも、彼がここに来なくなったら、と想像したときの胸の締めつけに思いは傾く。
「ねえ、ぼうっとしてないで」
「あ、うん。そうね、えぇと」
わたしのいた場所には、海とゆうものがあるの。話したかしら?
――ううん
海は大きな水たまりのようなもので、青くて、大きいの。わたしはよく彼とそこに行ったわ
――湖のようなもの?
たしかにそうかもしれない。ただ、湖と違うのは、青は濃くて、力強い波があって……
――波?
水がおおきくふくらんだり小さくなったりすることよ
――へえ
それからね、しょっぱいの
――味があるってこと?
そう。変な感じする?
――うん
「どう?」
「海ってすごいんだね」
「実はあんまり覚えてないんだけどね」
ここへ来てどのくらい経っただろう。正の字が書いてある壁を見るが、そこにはチョークのカスさえもない。目の前にあるのは、古びて、黒いカビが這った木目だけ。途端にこわくなる。あなた、はやく来て。
「今日は僕がはなす番だ」
わたしはシチューのじゃがいもをいじりながら彼のつむぐ言葉を聞く。
――海を知ってる?
知らないわ
暖炉の燃える、音がする。
おわり