黒豆を甘煮して
中川晴矢はわたしを愛してくれる最愛のパートナーだ。わたしには、晴矢しかいない。晴矢にとってもまた、わたしが最愛の相手のはずだ。それは揺るがない必然だから、ずっと、ずっとずっと、いまもこれからも変わらない。けれど。けれど? なのに。かな。
晴矢は、言った。
「あの時から、さとのには……半分だよ」
「あの時」とゆうワードを耳にし、ドクン、と胸が波打った。捕まえられない黒い虫が血の中を好き勝手泳ぎ狂うような、気持ち悪い感覚が全身に走る。
「半分て……?」額に冷たいものを感じながら平静を装う。
「さとのへの想い、あるいは愛情? が半分、てこと」
晴矢はなんでもないことのように、木漏れ日の下で歌う少年のように、穏やかに瞼を閉じて微笑んだ。口角が顔に宿した笑みに、偽りは見受けられない。
わたしを脅かす黒い虫が、からだの血をすべてかっさらっていった。残された体液は汗だけ。それさえも皮膚を伝い、だらだらと外を仰ぐ。
「本当に……?」
「うん」先ほどと同じ表情と声色。
ドクン、ドクンドクンどくん……。
「もう寝るね」
晴矢はセミダブルのベッドの真ん中で、わたしに背を向ける。当たり前に、繋いでいた手がほどけた。
次に頬を伝ったのは紛れもない涙、それだった。
なんで? なんでなの? さっきまで楽しくおしゃべりしてたじゃない。あしたは休みだから夜更かしできるねって。昔の思い出をお互いの頭上に浮かべて、ノスタルジックに心奮わせていたじゃない。
『俺が、留学してる時。さとの浮気したよね』
それはたまに晴矢が笑い話として口にする、わたしの消したい過去。晴矢のいない寂しさに、堪らず、他人を求めた。
知らなかった。晴矢がそれほどまで根に持っているなんて。だって笑っていたから。なにごともなかったかのように、前と変わらない優しい声でわたしを呼ぶでしょう。なんで、なんで今さら……。
はた、とわたしは自分が怒りしていることに気付いた。わたしは、ばかだ。わたしをいっぱいに愛してくれていると信じていた晴矢が、裏切った。と、憤怒している。裏切ったのは、わたしなのに。
晴矢がわたしを許せないのは当前だ。笑い話にしているからなんだ。笑って言うからなんだ。表面上の彼だけ見て、鏡に映る彼を一度でも見ようとしたことがあったか。いつものように微笑んで、過ちの最中にわたしへ「ただいま」と告げた彼の心中をわたしは考えたことがあったか。
弓なりになる目と、たるんだ縄のように曲がる唇ばかりを信じて、仮面を剥がそうともしてやれなかった。「いいよいいよ」と差し伸べられた手に、リュックに入れた罪を背負い忘れたまま、手を重ねた。
無意識のうち、わたしも晴矢へ背を向けていた。漏れだす嗚咽が時折ベッドを軋ませる、晴矢を起こしてしまわないか、晴矢に気付かれないか、恐れた。
晴矢がいまでもわたしの傍にいるのは、それでもわたしが晴矢を取り巻くひとびとの中で群を抜く存在だからだ。愛が半分になっても、だ。
いちばんであるのに、いっぱいに愛してもらえない。これからどうしたって、わたしの犯した過ちが消した半分は戻ってこない。どうしようもない。しかたのないことだと諦めるしかないの?
「ごめんなさい……晴矢」
ぐう、とからだを縮み込ませてぽつりと溢したその言葉は、顔までかぶせた毛布に籠って消えた。聞こえなくていい、聞こえなければいい。取って付けたような謝罪など受け取って欲しくない。
「おはよう、さとの」
「……おはよう」
寝た気もせず起きると、晴矢はキッチンにいた。
どう接したらいいのかわからず、朝食を作ってくれている晴矢に、そっけなくぶっきらぼうな言い方をしてしまった。それに付け加え、尻すぼみ。これではただのむくれたガキだ。違う、のに。
「さとの、怒ってる?」
コトリ、わたしの前に湯気立つおかゆを置いた。
「怒って、ないよ」
どう言ったら良いかわからない。怒っていないと伝えたいのに結局、ぎこちなく終わってしまう。
晴矢は、向かいに座って「食べよう」と言った。
食卓にはおかゆの他に、焼き魚や漬け物、日本の朝食らしいものが並んでいる。
「うん、いただきます」
一口、食べた。
わたしを見て、晴矢はひとり言のように呟いた。
「さとの、泣いたね」
「……」
「半分、なんてありえるわけないでしょ」
「え?」
晴矢は、なにもかも見透かしたような瞳で言ってみせた。推理じゃない、わたしの心を覗いてわかった事実を淡々と述べる。
「さとのさ、一晩苦しんだよね。それで、許してあげる。なんてね。辛かったでしょう? ごめんね」
おかゆは、わたしがいちばん好きなごはんだよ、晴矢。
ただただ首を激しく振って涙を撒き散らす。とめどなく流れるしずくは、昨日からの所為もあり、頬や下瞼に仄かに痛みを植え付ける。
「なんで晴矢が謝るの! ごめんね! ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい……ごめんなさい!」
言いたいことはたくさんあるのに、謝りたい思いだけが先走って、出てくる言葉はそれだけ。
「おかゆ、今日はすごくうまくいったんだ。ね?」
なだめる声が優しい。いちばん、傷付いているのは晴矢なのに。
ねえ、わかったよ。晴矢の半分は、わたしに付いたんだね。晴矢へのわたしの愛がもう半分増えていたんだ。
晴矢、愛してるよ。いっぱいと、それから半分。
おわり