しずく   同乗愛



 いま、わたしは、706と印字された座席のカバーを見ながらガタガタと揺れるバスに乗って東京への帰路に着いている。彼の待つ郊外のアパートが数時間後に迫っていた。
 彼への土産は、荷物置きの上で秋田を恋うているのだろうか。
 秋田は東京よりも涼しく、小京都と語る角館は名に劣ることなく京都の劣化品だった。
 ほんの二日間の滞在は学会のためであった。おそらく、これが最後の学会だろう。
 それにしてもこのバスは失敗だ。上からの冷風は微弱、それなのに足元の通気孔らしきものはなぜか熱を帯びていて、右足を焼く勢いで温風を吹き付けてくる。もちろん夏であるいま、後者がわたしに与える影響は大きいわけで、さっきからタオルを離せずにいる。
 時刻は午前を回っていて、周りの乗客は崩れた体勢で寝苦しそうに目を瞑り寝息を立てている。彼は、涼しい部屋ですやすやと眠っているのだろうか。それとも、彼の大事な「彼」と過ごしているのだろうか。それは、ない、か。
 わたしには、どうすることもできない。彼がわたしを見てくれないのははじめからだ。友だちの延長線で付き合いだした。親しいひとらに報告すると、みながみなわたしたちがいままで恋人同士でなかったことに驚いた。
 わたしは、ずっと彼を友だちではない感情で好いていた。彼は、違う。彼にはわたしではない想いびとがいると端から知っていた。それが男であることを知ったのはつい最近だが、ショックはないに等しかった。相手が誰にせよ、叶わないのはもう嫌とゆうほどわかっている。これ以上の痛みなどない。
 彼がわたしと一緒にいるのは、わたしが彼を好きだと知っているから。そして、自分の塞がらない想いの埋め合わせだ。
 彼は、わたしに後ろめたさを感じているに違いないのだ。わたしに謝りたくて仕方ないのだ。だけれどそれを口にしない。謝ったところで理由など言えない。話せば自分はひとりになってしまう、そう考えている。彼は弱い。だから彼は、わざとわたしに小さな危害を与えては、本当の意味を混ぜてとても申し訳なさそうな声と表情で「ごめんね」と謝る。そして、たまに、泣く。わたしには、それが歯痒くて、悔しい。
 彼に、「好き」だと、「愛している」と言ったことはない。きっと口にしたら(ある種の愛情は抱いているだろうが)、自分に嘘をついてわたしの示す愛に応えるための「俺も」を言うはずだ。
 そんなのは、苦しいし、辛い。でもわたし以上に彼は苦しくて、辛い。自分を憎んでいる。わたしの痛みなんて、なんでもないことだ。
 バスのアナウンスが鳴る。どうやら、いよいよ新宿に着くらしい。そういえばさっきから外の陽が、カーテンの隙間を縫って射している。
 ふと、光るケータイに目をやる。彼からのメールが大分前に届いていた。
『新宿だよね? 駅で待ってるよ』
 時刻は朝の七時にも満たない。
「朝、弱いくせに……」
 彼は、誰より優しい。


おわり