しずく   雪野君とわたしの秘密のそのあとに



 だいだいに染まる空の下で交わす「またあした」が格別に好きだ。あしたも会えるね、って確かめられるこの挨拶に他意があっては困る。こまる。たとえば、雪野君が千円札をわたしに渡して、去り際に残す「またあした」
 「あしたも見てね」の意味を込めて雪野君は笑う。わたしは、最初こそ苦笑を返したが、いまでは笑って「うん」と言える。貯まったお金で雪野君と豪遊するのが夢だ。
 夕日に溶け込んでゆく雪野君のうしろ姿をしばし眺め、彼の歩きづらそうな足を目にした途端、わたしは家へ足先を向けた。
 部屋に入るなり、わたしは昔使っていた財布を取り出して本日の報酬を納める。ふいに、いくら貯まったか気になり一度しまった札束を出した。
「わ……すご……」
 十日で諭吉と同じ立場に立つヒデオたちは、回らない寿司でも食ってきなさいと言わんばかりの瞳でわたしを見ていた。信じられず、再度数え直すがヒデオが減ることはなかった。財布に彼らを戻しながらわたしはぼやりと考える。ヒデオの数だけが、雪野君とわたしの歴史で、思い出なのだ。と。
 財布を投げ捨てベッドに寝そべる。
 暗さと、なにかを孕むオーラでラッピングされた雪野君がわたしに告白してきたのは、彼が転校してきてまもなくのことだった。
「付き合ってくれませんか」
 西日の差す放課後の教室で、たまたま、わたしと雪野くんはふたりきりになった。自席に座るわたしに歩み寄ってきた足は震えていても、吐き出す言葉にブレはなかった。
 突然のことに驚きつつも、雪野君を嘗め回すように観察する。意外にも整った顔が、わたしを惹きつけた。
 ――これも、社会経験か。
 口を開きかけたところで、雪野君の次のセリフに承諾は潰された。
「僕が、殴られているのを、見ていて欲しい」
「は……?」
「タダでとは言わない」
「いやっ。いいよ。うん。わかった!」
 雪野君がいじめられているのは知っていた。いじめの現場を見て、わたしに証人にでもなって欲しいのだろう。わたしは快諾した。勘違いした恥ずかしさが背中を押したのは間違いない。
 「ほんとう……?」半信半疑の雪野君は、確かに笑っていた。安心の笑みか。わたしはその瞬間、雪野君を助けたいと心から思った。
 しかし、わたしの予想は大きく外れた。


「それじゃあ、今日もよろしくね」
 このごろは初夏のにおいがする。ほのかな香りを鼻で感じ、呆けていたわたしは空返事をして茂みに隠れた。
 ベタに体育館裏へ呼び出された雪野君のもとに、彼を呼び出した張本人が訪れたのはわたしたちが到着して五分ほど経ってからだった。
「よう」
 ガチホモ先輩だ。
 わたしが勝手に作った「雪野君を殴るリスト」にいる会員ナンバー3の体格のいい三年生、彼は五人の会員のうち唯一ひとりで雪野君を殴る。
 茂みに隠れているとは言え、彼らと数メートルしか離れていないのでわたしはいつ見つかってしまうかとハラハラしながら見守る。
 先輩の、わたしが名づけたガチホモたるゆえんは、その名の通りガチホモにしか見えないことにある。他の会員は、複数人で雪野君を殴る。憂さ晴らしを露にして雪野君を殴る。金を巻き上げようとする会員は驚くことにひとりもいない。多分それは、やっぱり雪野君が出す、異質なオーラにあるのだと思う。わたしも時々、理由もなく雪野君をはたきたくなる。その衝動は、単に殴りたいとゆう欲求でしかなく、雪野君に怒りを覚えた、とかでは、ない。
 しかしガチホモ先輩は雪野君を殴るとき、恍惚を顔に浮かべる。それは、わたしの定義した欲求による衝動に違いないが、わたしは見てしまった。ガチホモ先輩は、勃起していた。今日も、彼は勃起するのだろうか。
 わたしは、見慣れた暴力の風景に一度空を仰いだ。そして、持参したジャムパンをかじる。いちごジャムは、すこしすっぱい。


 雪野君がわたしに「いじめ」を先生に供述してくれと頼むことはなかった。わたしは、当たり前のように提案する。
「先生に、あした言えばいいんだよね?」
 はじめて見る、暴行現場に何度も目を覆いながら止めることも出来ず、最後までそこにいることが精一杯だった。だから、せめてもの正義を振りかざそうとした。
 先輩たちがいなくなった校舎裏でへたり込む雪野君は、わたしの言葉を理解し得ていないような表情をする。
「なんで?」
「なんでって……。いじめの証人になって欲しかったんでしょう?」
 いじめを受けているなど、大勢のひとに知られたいものではない。そう、たまたま、わたしひとりが教室にいたから……。なのに。
 わたしはすでに混乱していた。


つづく