三、 雪野君とわたしの秘密のそのあとに
「雪野君……!」
「来ないでっ……」
雪野君の咆哮に驚き、肩に触れようとした手のひらを引っ込ませて一歩うしろへしりぞいた。
「先に……行ってて。すぐに、行くから」
「……わかった。校門で待ってるね」
すぐにわかった。いままで、性癖に従い欲望を満たしていた雪野君が興奮を露見させないのがおかしかったのだ。
雪野君は、勃起していた。
「なんか、今日いろいろ変だよね」
なにを思ったか。わたしは、雪野君の血が光る口端にキスをした。ごくごく自然に、息を吸って吐く、その行為ように。
雪野君は、なにも言わない。照れさえ、見せない。もしかしたら、雪野君の口端が彼の停止ボタンだったんじゃないか、と考えたくらいで。
「雪野君」
「僕」
まただ。雪野君は、わたしの言葉を潰す。
「笹沢さん、に、声をかけたんだ。あのとき、教室にいたひと、に、言ったんじゃない」
雪野君は変態だ。ゆきのくんはへんたいだ。
「僕……」
雪野君は、口篭る。
チリチリンッ。
ベルを鳴らしながらわたしたちの横を自転車が通り過ぎた。わたしたちは、それを合図に歩き出す。会話は、いつの間にか昨日のバラエティー番組の内容に変わっていた。
その日、はじめて雪野君はわたしに千円を渡さなかった。
あしたから、夏休みがはじまる。あの日から、一週間経つがいじめのスパンがこんなに空くことははじめてだった。いじめがなければ、わたしたちがしゃべることはない。したがって、夏休み中に雪野君に会うことはないだろう。
喧騒で溢れる教室で、わたしは頬杖を付きながら、本を読む雪野君の背中を眺めた。
***
それは、前触れもなく訪れた。
「雪野は突然だが転校した。夏休み前には決まっていたらしいが、雪野からの報告が夏休み中だったためにみんなにあらかじめ伝えることができなかった」
夏休み明け一発目のホームルームは、まさかの雪野君の転校事後報告からはじまった。
クラスメートは特に反応もせず、悲しんでいる様子もない。当たり前だ。雪野君がクラスメートと会話をするのは、掃除当番や日直を頼まれるときだけだったから。
「昼休みにでも、雪野の机と椅子、だれか運んでくれないか」
先生は、物乞いでもするような瞳で教室を見回す。
「お。笹沢。やってくれるか」
「はい」自然と手が上がっていた。
うしろから、アケミの「まじでなな?」と信じられない風の声が聞こえた。
だって、わたししかいないじゃないか。雪野君の机を運ぶ適任が、このクラスにわたし以外誰がいる。
四限目終了の鐘が鳴り、わたしはすぐに雪野君の席に向かった。椅子を机の上に置き、持ち上げる。一瞬の沈黙と、たくさんの視線を後頭部に感じた。わたしは、気にも留めず廊下に運び出す。
担任が指定した空き教室は、この階のひとつ上にある。
まるで小学生のようなはしゃぎっぷりを見せる男子たちが、わたしと雪野君の机スレスレに通りすがってゆく。
『僕……』
雪野君があの日、わたしに言いかけた言葉は転校のことだったのか。それとも。どちらにせよ、わたしたちは潮時だった。だから、雪野君は黙って消えた。連絡先だって知らないわたしたちに、「またあした」は来ない。
「さ、笹沢さん……!」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには会員ナンバー4のドキュン先輩が立っていた。
空き教室は目と鼻の先にあるのに、話しかけられたことで辿りつけない歯がゆさ。
「……なんでしょうか」
すると、ドキュンは距離を詰めた。本当にアホっぽい顔をしている。死ねばいいのに。
「好きです! 俺と付き合ってください!」
耳を疑った。
わたしが、あなたと?
「いいですよ」
わたしの中で、言い知れないなにかがどうにかなった瞬間だった。それは、吹っ切れたと形容するのが正解だろうか。
「やった! それじゃ、あとで迎えに行きます!」
ドキュンは満面の笑顔を残して颯爽と帰っていった。転んで死ねばいいのに。
「告白は体育館裏じゃないんだ」皮肉を呟いて、教室に入る。乱雑に置かれた、使われない机と椅子たち。悲しかった。
そうだ。ガチホモ先輩に雪野君のお金を使って貢ごう。雪野君は、ドエムだからきっと喜ぶ。自分を殴っていた先輩とわたしが付き合い、自分を殴っていた先輩に、かつて自分のものであったお金でわたしが貢ぐ。きっと、よろこぶ。
いつの間にか、リフレインするあの警鐘は鳴り止んでいた。
おわり